やりたいことに集中すること、のちから

先日、
合氣道の体験を受けてきました。

そこでさせてもらった体験で
気づきがあって、
残してみようと思います。

ぜひ、日々試行錯誤をして
時間を掛けて更新していきたいと
思ったことでした。

まず、これは、
☆簡単な体操など準備を行い、
 姿勢というか、からだの状態を
 整えたうえで行ったことです。

とはいえ、ド素人の私でも
混ざることができるような
難しくないことばかりでしたし、
1時間も2時間もかかるような
内容ではありません。

そうすると、
少しの力で押されたくらいでは
ぐらつかないような
無理のない立ち方、座り方が
できるようになりました。

その状態で、のことではありますが、
自分の気持ちが、
やろうとしていることに対して
きちんと向いている状態の
「ちから」を感じるような
実践を経験したのです。

—–
ふたり一組になります。

ひとり(Aさん)が雑巾がけをしようと
床に置いた雑巾の上に
片手を置きます。

その状態で、
雑巾に乗った手の手首を
もうひとりの方(Bさん)が掴み、
体重を掛けて
雑巾に置いたAさんの手を
ぐっと押さえつけます。
—–

そして、Aさんが以下のことをします。

①その手を何とかほどこうとしたり、
 その力を避けて雑巾を掛けようとします。

②押さえられていることはそれとして、
 雑巾を持っている手に集中して
 雑巾を掛けようとします。

まぁまず、
①のように気持ちがはたらいて
「何とかしよう」
とすることがほとんどではないでしょうか。
少なくとも、わたしはそう動くと思います。

当然、大変な力が要ります。
相手が女性であっても、
ちょっとやそっとじゃ動きません。

ふつうの光景です。
お稽古での先生も、
一生懸命やろうとなさっているときは、
雑巾がけをすることはできませんでした。

しかし、
②の動きをすると・・・

するりと動くのです。

先生はもちろんのこと、
参加者の方々も、
ど素人のわたしでさえも!

何が起きたのだ!!!

びっくりして笑っちゃう!
おもしろい!

—–

氣の向け方を変えただけです。
その間、3秒w

そんな短時間ですから、
急に力持ちになった訳でもなければ、
身体を自在に動かす術を
身につけた訳でもありません。

でも、
「たったそれだけ」のことで
身体が持っている本来の力を発揮した
ということのようです。

よくわからないけど、
まぁ、そうなんだろう、
ということは
”めっちゃ感覚的”ですが
なんとなーくわかりました。

だって、
それ以外の理由が思いつかないしwww

—–

実は、①②のあと、
もう一つやったことがあります。

③あー、やりたくないなー、
 という心持ちで
 雑巾を動かそうとしてみる。

これも、
うごかないんですw
同じくらい一所懸命に
手を動かそうと力を掛けているのに。

なんなんでしょうね。

これも、
何かを成し遂げるのには、
大きな障害となりそうです。

しかも、
自分で作る障害だから
笑っちゃいます。

—–

本当はできることを
あれやこれやと
思考をつかったり
無理やりなんとかしようとすることが
却ってやろうとしていることを
できなくしているらしいです。

目の当たりにして、
そして、体感しました。

これに気づいて、
説明できるようになったり
体系立てた人たちって、
いったい何者ですか!?

すごいひとがいるもんですね。

おかげさまで、
凡人のわたしも
おもしろい世界の一端を
垣間見ることができました。
ありがとうございます!!!

—–

自分がやろうとしていることに
集中するって、
あたりまえのようで
あたりまえでないことを
改めて教わりました。

そんな「簡単そうなこと」が
容易にはできないのです。

しかも
数十年、数百年前に比べて、
現代はより「むずかしく」
なっているかもしれません。

きちんとやる氣を持てる
姿勢(体の状態)をつくり、
その氣を向けたい方向に向ける。

そして、
本領を発揮できる。

邪魔が大した邪魔ではなくなる。
なんなら力になるかもしれません。
(しっかり力が床に伝わって
 よりしっかり拭けるかもしれません。)

障害があっても、
それを何とかして
押し通そうとすると、
「障害をなんとかしよう」
ということに氣やからだを
はたらかせることになります。

そうではなくて、
障害があっても、
自分のやること、やるべきことに
純粋に向かい、
そこに自分の氣やからだを
はたらかせる。

そんな感覚でした。

「何かをやる」ことの連続が
まさに人生ですから、
これがするりと
できるようになったら・・・!

自分が叶えようとしていることに対して、
きちんとそこに氣が向かっていることで
”少なくとも”、”自分の”、
考え方やからだは
自分のやりたいことを叶えるために
最大限にはたらく。

そんなもんなんだろうな、と
やっとちょっと実感できた気がします。

—–

わたしが学んだ占い、
卍易風水の術でも、
鑑定の際にはそこを見ます。

どんなにその願いが叶いそうでも、
ご縁がありそうでも、
相談にみえた方が
本当にそれを願っているのか、どうか。

そこがずれているということは、

その願いが叶うこと
 イコール
その方のしあわせ

にならないからです。
(叶って不幸せとか、残念すぎる。)

でも、それだけでなく、
そこがぴったり合っていれば、
きっとそれだけで
願いを叶えることに
何歩も近づくのだと、
そんな風に思いました。

そしてさらに、
卍易風水では、鑑定の結果、
こうすると今よりも
叶いやすい道を進みやすくなりますよ、
という、
具体的な風水をお伝えすることができるのですが、
もし、
その方が本心から「それを叶えたい」と
思っていなかったら、
方法をお伝えして実践されたとしても、
その方は、後押しの影響を受け取れず、
願いの具現化が
遠のいてしまうのだろうと、
改めて思います。

—–

この話、
現時点でもう少し
卍易風水で氣にすることとつながって
面白がっているところなのですが、
長くなったので、今回はこの辺で。

お読みくださり、ありがとうございます。

もっと、
実践して
感じて、
理解して、
深めていきたいです。

アジアの文化、面白いです。

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